「孤独な人は頭がいい」という甘い嘘。そして素晴らしい人生とは何か?

※当サイトはアフィリエイト広告を利用しています

   

はじめに:その「孤独」は、本当に勲章なのか?

SNSやブログを開けば、毎日のようにこんな言説が流れてくる。

「頭がいい人とは、孤独でいられる人のことだ」
「群れる人はバカだ。思考が浅いから誰かといないと不安なのだ」
「孤独な時間こそが自分というOSをアップデートする聖域だ」

こういうのは全て優しさのオーバードーズであり、麻薬的な一瞬の救いにしかなっていない。

なぜなら、そこには「自分は選ばれた人間である」という隠しきれない特権意識と、社会生活を営む他者への冷ややかな蔑視が透けて見えるからだ。

もっとハッキリ言えば、これは「コミュニケーションがうまくいかずに孤立してしまった人」を慰めるための、耳触りのいいマーケティング・トークに過ぎない。

今日は、この「孤独=高知能」というすり替えの無意味さと、真実はどうなのか、そして私たちが本当に大切にすべき「生きる姿勢」について話をしたいと思う。

1. 「頭が良い」とは、一体どういうことなのか?

まず前提として、「頭が良い」とはどういうことなのかを整理しよう。

偏差値が高いのはもちろん頭が良い。絵が上手に描けるのも、対象の構造を捉えて出力できるのだから頭が良い。
では、野球が上手なのはどうだろう? これだってやはり頭が良いと言える。飲み会のような場で楽しくみんなと話ができる、これも頭が良い証拠だ。群れを作れる人、その中に入れる人、これだって立派な知性だ。

何かの分野で「GOOD」と言われる結果を出せている人は、頭がいいに決まっているのだ。そこに、孤独か群れるかなんて関係ない。

知性とは「状態(一人か多勢か)」ではなく、「出力(何を生み出したか)」に宿るものだ。

家族を持ち、子供を育て上げているお父さんやお母さんを見てほしい。彼らは日々、自分以外の他者と調整し、理不尽を飲み込み、生活という城を守り続けている。これは凄まじい「知性」と「胆力」の結晶だ。
職場や地域社会で、多くの人と円滑に会話を回せる人を見てほしい。彼らはその場の空気を読み、不快感を与えず、物事を前に進めている。これもまた、高度な社会的「知性」だ。

それなのに、「孤独礼賛論者」たちは、こうした営みを「群れている」「浅い」「同調圧力に屈している」と冷笑する。

それはイソップ童話の「酸っぱい葡萄」と同じだ。
自分が手に入れられなかったもの(円滑な人間関係や家族)を「あんなものには価値がない」と決めつけることで、自分のプライドを守っているに過ぎない。

仲間、友人、家族を持つほうが幸せになりやすいというのは、統計的にも多くのケースで真実だ。それなのに、「孤独だから頭がいい、家族持ちは思考停止だ」などと喜んでいる時点で、その思考自体が歪んでいると言わざるを得ない。

逆に言えば、「孤独=頭が良い」ということは、「群れる=バカ」ということになるが、そんな安直な発想をする人間が賢いはずがないのだ。

「孤独=頭が良い」なんて発想は早々に捨てたほうがいい。言ってしまえば、人間のスペックとしての頭の良さなんて、ある分野においては頭が良く、ある分野においてはそうでない、というのが大抵のことだ。あとはどう価値を作っていくかという話に尽きる。

答えを言おう。みんな頭が良いし、みんな等しく価値がある。そんなのは当たり前の前提だ。

では、素晴らしい人とはどんな人なのか?
それは「社会の構成員であることを自覚し、自分の人生にフォーカスして、腐らず他者を重んじて最後まで一生懸命生き抜けるか」ということだ。そこに孤独も群れも関係ない。

2. 「◯人組を作って」で余ったのは、才能ではない

残酷な事実を直視しよう。

孤独というのは、自ら選び取って手に入れる高尚なアクセサリーではない。多くの場合は「結果として」そうなってしまうものだ。
孤独や孤高になったのではなく、単に「孤立」しただけだ。

学生時代、「2人組を作ってください」と言われて、周りがどんどんグループを作っていく中、あぶれて一人ポツンと残される。

社会に出て、組織の力学や人間関係の機微が分からず、結果的に孤立する。

その「結果」を後から無理やり、「いや、俺は群れない狼だから」と脳内で変換し、「頭がいいから孤独なのだ」「周りと合わないのは、自分のレベルが高すぎて低い連中と話が合わないからだ」と正当化するのはやめよう。それは知性ではない。「無」だ。

3. 大谷翔平の「孤独」と、あなたの「孤立」は違う

もちろん、孤独な環境で偉業を成し遂げる人はいる。だが、彼らの孤独と、単に社会から弾き出された孤独をごっちゃにしてはいけない。

例えば、大谷翔平選手を見てほしい。
彼はチームメイトから愛され、ファンから熱狂的な支持を受け、誰よりも周囲の期待を背負っている。その上で、彼は「孤独な練習」を選ぶ。

なぜか?

チームを勝たせるためだ。ファンの期待に応えるためだ。そして何より、自分自身の限界を超えるためだ。

彼は「孤立」しているのではない。「孤高」なのだ。

これは何も、大谷選手だけの話ではない。

学者やアーティスト、漫画家であっても同じだ。彼らは社会と繋がり、多くのファンに愛され、頼られている。その一方で、時に甘い誘惑と戦いながらも、責任を果たすために自分を律し、黙々とやるべきことをやる。

その営みは、多くの場合、孤独な作業となる。

そういった「社会性」と「努力・精進」という土台の上に成り立つ孤独にこそ、本当の輝きがある。
ただ部屋に一人でいて、スマホをポチポチしながらネットを眺めているだけの孤独とは、月とスッポンほどの差がある。

4. 0対10の9回裏に何を見るか

では、頭の良さや、結果が出せなかった人間には価値がないのだろうか?

絶対に違う。

人間には生まれた時点で価値があり、それは等しい。これも当たり前のことだ。
じゃあ、その上で何を基準にするのかと言えば、それは「一生懸命に生きる」ということだ。これに尽きる。

高校野球を想像してほしい。

0対10で迎えた9回裏。敗北はほぼ決まっている。
それでも、最後のバッターがヘッドスライディングをし、泥だらけになって一塁を駆け抜ける姿に、私たちは涙する。

なぜか? 彼らが「最後の最後まで諦めず、腐らずにやり抜いた」からだ。

勝敗(結果)はどうでもいい。

重要なのは、自分の人生や、自分の能力という配られたカードを使って、どれだけ真剣に生き抜いたかだ。

誰かの役に立ち、誰かの支えになり、少なくとも誰かの迷惑にならないように、自分の足で立つ。
そのプロセスそのものが尊いのであって、「頭がいいかどうか」「孤独かどうか」なんていうスペック論は、この「生の輝き」の前ではあまりにちっぽけだ。

おわりに:救いは「生きること」の中にしかない

「孤独な人は頭がいい」

そんな言葉で救われるような自尊心なら、捨ててしまえばいい。そんなものは偽物の救いだ。

本当の救いは、他者を貶めることでも、自分を天才だと勘違いすることでもない。

自分自身に集中し、他者を重んじ、泥臭くても一生懸命に生きること。
腐らず、逃げず、目の前の現実と格闘すること。

孤独な人も、家族に囲まれている人も、すべからく救われる道はそれしかない。
「自分は頭がいい」なんて妄想に浸っている暇があったら、バットを振れ。誰かのために汗をかけ。

そうやって必死に生きている人の孤独だけが、初めて「知性」と呼ばれる資格を持つのだ。