ある料理人たちのエピソードから読み解く生存競争の正体
先日、SNSである飲食関係者の投稿が大きな話題となった。
内容は、昨今の若手料理人たちの「意欲の低さ」に対する嘆きと、現場で起きている乖離についてだ。要約するとこうだ。
現場に1年いても、だし巻き卵すらまともに巻けない、千切りやかつら剥きも満足にできない若手がいる。
見かねて店側が休日に時間を設け、貴重な器の実物を触らせながら教える機会を作ろうとすると、「それは休日出勤ですか?(手当は出ますか?)」と嫌がる。本来ならお金を払ってでも学ぶべき貴重な機会の価値が伝わらない。
「ネットで調べればわかる」と思い込み、実体験を軽視する。
その一方で、やる気のある子は掛け持ちでバイトをしてでも貪欲に学んでいる。
この現状は若者のせいだけではなく、教育の失敗ではないか。
この投稿には多くの反響があった。「最近の若者は」という嘆きもあれば、「教える側の問題だ」という意見もあるだろう。もちろん、これは「若者論」として片付けられる問題ではない。いつの時代も、どの業界でも起きている普遍的な現象だ。
ただ、一つ確かなことがある。
「休日出勤ですか?」と聞いた彼らに、組織が今後、重要なリソース(教育コストやチャンス)を割くことは二度とないだろう、ということだ。
これは感情的な制裁ではなく、経済合理性に基づく極めて冷徹な判断だ。そのメカニズムを、組織論の観点から紐解いていきたい。
「10」を教えても「10」にはならない
まず、構造的な前提として「2:6:2の法則」があると仮定しよう。
例えば、10人の新入社員(あるいは若手料理人)がいるとする。
会社は彼らに「10」のことを教え、全員が「10」の仕事ができるようになることを期待してコストを投下する。単純計算で「10の力 × 10人 = 100の成果」が会社の目論見だ。
しかし、人間には個体差があり、向き不向きがあり、成長への渇望に差がある。教育の結果は必ずバラつく。
成果の総量は同じでも「中身」は変質する
会社がコストをかけて「10」を教えた結果、どうなるか。
- 上位2割(Aランク):教えられた以上のことを吸収し、「12」の力を発揮する。先述の例で言えば、掛け持ちしてでも学ぶ層だ。
- 中位6割(Bランク):期待通り「10」の仕事をする。
- 下位2割(Cランク):どうしても習得できず、「8」にとどまる。1年経ってもだし巻きが巻けない層はここに分類される。
結果を計算してみよう。
- Aランク:12 × 2人 = 24
- Bランク:10 × 6人 = 60
- Cランク: 8 × 2人 = 16
合計は「100」。
本来の予定(10×10=100)と総量は変わらない。経営者や管理職以外は、ここで思考を止めてしまう。「なんだ、トータルで帳尻が合っているなら問題ないじゃないか」と。
だが、この時点で組織の質は決定的に変質している。ここにあるのは「均質な10人の兵隊」ではなく、「使える2人」「普通の6人」そして「戦力不足の2人」という明確な階層構造だ。
「154時間」の壁と、見えないルール変更
初期教育というコスト投下期間が終わると、そこからは実戦配備となる。
労働時間は1日7時間。1ヶ月22日稼働として、約154時間。この限られた枠の中で、彼らは競争し、成長しなければならない。
ここで考えてみてほしい。全員が同じ154時間という枠内で働いている限り、能力差は縮まるどころか開く一方だ。BランクがAランクに追いつくことはないし、CランクがBランクになることもない。
では、上位層はどうしているのか?
ここで差をつける最もシンプルかつ暴力的な方法は「時間の投下」だ。
定時後や休日に2時間、自己研鑽に充てる。それだけで月間60時間近い差が生まれる。これはある種の「ズル(攻略法)」だ。学校が終わった後に塾に通って受験戦争を勝ち抜くのと同じ戦法である。
給料が出るわけではない。しかし、彼らはより快適なポジションや将来の果実を得るために、勝手にこれをやる。
問題はここからだ。
彼らが勝手に能力を上げることで、会社で求められる「普通の仕事水準」が勝手に引き上げられてしまうのだ。
「権利」を叫ぶ者が、永遠に追いつけない理由
一方で、こう主張する者もいる。
「仕事に必要なことは会社が教えるべきだ」
「業務時間外に勉強しろと言うなら、その分の残業代を出せ」
労働者の権利として、彼らの言い分は正しい。法的に守られているのも彼らだ。しかし、資本主義というゲームのルールブックにおいて、その「正しさ」は彼らを救わない。
なぜなら、基準値(合格ライン)は常に動いているからだ。
仮に会社が慈悲深いコストをかけて、能力「8」のCランクをなんとか「12」に育て上げたとしよう。これでようやく、かつてのAランク並みになれたわけだ。
しかしその頃には、Aランクの人間は自主的な努力によって能力を「14」や「16」に伸ばしている。すると、会社や市場が求める「当たり前の基準」も「12」ではなく「14」にスライドする。
やっと追いついたと思ったCランクは、またこう言わなければならない。
「14になるための教育を会社がするべきだ!」
「そのための時間は残業代を出せ!」
会社から見れば、彼らは「いつまで経っても自走できず、コストばかりかかる社員」でしかない。
厳しい言い方をすれば、基準値を吊り上げているのは「勝手に努力する同僚たち」だ。会社はその底上げを歓迎し、給料や待遇で差をつけることでそれを煽る。
ここにあるのは学校ではない。自分の食い扶持は自分で稼ぐ、大人・社会人が集う「会社」だ。
会社は、新入社員研修などの「最初に必要なコスト」は平等に支払っている。新しいシステムが導入される際なども、全員に平等に研修を行うだろう。
その結果、落ちこぼれた2人と、自走し始めた8人に分かれた。これ以上、落ちこぼれた2人にコストをかける義理もメリットも、企業側にはないのだ。
我々は「ファイアーエムブレム」をプレイしている
企業にも余裕がない。 今年「100」の成果で生き残れたとしても、来年はライバル企業が強くなり「110」が求められる。成長を止めれば、待っているのは敗北と倒産だ。
「Cランクの人を教育して底上げすればいいじゃないか」というヒューマニズム溢れる意見もあるだろう。冒頭のエピソードでも「教育の失敗」という言葉があった。
だが、リソースは有限だ。新しく入ってくる新入社員にもコストがかかる。教育コストというリソースは無限ではない。
ここで、ある残酷な問いを投げかけたい。
あなたが『ファイアーエムブレム』のような、ユニットを育成して戦うシミュレーションRPGをプレイしていると想像してほしい。
ゲーム内には限られた「経験値を稼ぐ場」と「装備品(リソース)」しかない。
ここに「効率よくどんどん強くなるエースユニット(Aランク)」と「どれだけ手をかけても成長率の悪いユニット(Cランク)」がいる。
あなたはどちらを優先して出撃させ、どちらに経験値を与えるだろうか?
趣味でゲームをするなら、「私は弱いキャラを愛でて育てるのが好きだ(縛りプレイ)」という楽しみ方も許される。しかし、現実社会のルールが次のようなものだとしたらどうだろう。
「これから100人にファイアーエムブレムをプレイしてもらいます。クリアが早い先着70人は生き残れますが、残りの30人は死刑(倒産・失業)です。さあ、プレイを開始してください」
命がかかったこの状況で、あなたはまだ「成長率の悪いキャラにコストをかけて、ゆっくり育てたい」と言えるだろうか?
答えは否だ。生き残るために、最も効率よく育つ「使えるキャラクター」にリソースを集中させ、最短でクリアを目指すはずだ。
これが、競争社会で企業が行っていることの正体である。
企業がCランク社員に対して抱いている本音は、およそ次のようなものだ。
「AランクやBランクが働きやすいように、せめて雑務でサポートしてくれ」
「最低限、足だけは引っ張らないでくれ」
「それが嫌なら自助努力で這い上がってくれ。会社は最初にチャンスを与えたはずだ」
「君たちにコストをかけるくらいなら、見込みのある新人か、さらに伸びるエースに投資したい」
そして最後にこう付け加えるだろう。
「クビにできない法律があるから雇っているだけだということを、どうか忘れないでほしい」
プロスポーツの観客席で起きていること
Cランクの人間が「会社が教育しろ!」「手当を出せ!」と叫び、会社がそれにコストを割こうとしない時、そこにあるのは悪意ではない。「合理的判断」だ。
Aランクが自力で「12」になり、さらに自己研鑽で「14」になろうとしている時、会社が求める基準値も「12」や「14」へとスライドしていく。
仮に会社が手厚く教育をして、Cランクがようやく「8」から「10」になったとしても、その頃には基準値は「12」になっている。Cランクは永遠に周回遅れのままだ。
あなたは、ひいきの野球チームやサッカーチームを見ていて、チャンスで凡退を繰り返す選手、守備で足を引っ張る選手にこう思ったことはないだろうか?
「さっさと交代させろよ!」
「あんな奴を使うな、若手を使え!」
「そいつに打席を与えるのは無駄だ!」
テレビの前でファンはそう叫ぶだろう。
その時、もしグラウンドの選手がマイクを握ってこう言い返したら、あなたはどう思うだろうか。
「打てるように球団が教育すべきだろ!」
「時間外でトレーニングしてるんだから、その分の金を寄越せ!」
間違いなく、あなたは呆れ果ててこう言うはずだ。
「甘えるな。お前それでもプロか? だったら人の倍練習して結果を出せ!」
テレビの前で野次を飛ばすその心理こそが、会社が「休日出勤ですか?」と問う社員に向けている視線そのものなのだ。
結論:残酷な螺旋の中で
資本主義の競争社会において、常に誰かに勝ち、良いポジションを確保しなければ快適な生活は手に入らない。
この構造は、国単位で行われ、会社単位で行われ、そして個人単位でも行われている。
個人の競争が企業の力を生み、企業の競争力が国力を決定づける。
逆説的だが、豊かな国(Aランクの国)に住むCランクの人間が、貧しい国(Cランクの国)のAランクの人間よりも良い暮らしを享受できているのはなぜか?
それは、その国に死に物狂いで競争を勝ち抜くAランクやBランクの人間がおり、彼らが国全体を富ませているからだ。Cランクの人間が守られているその「快適な生活」こそが、実は彼らが批判してやまない「モーレツに働く勝者たち」によって支えられているという皮肉な現実がある。
冒頭の料理人の話に戻ろう。
「器について教えよう」という申し出に対し、「休日出勤ですか?」と返した若手は、その瞬間に「労働者としての権利」を守ったつもりかもしれない。だが同時に、彼は自分自身の生存を支えている足場を蹴り倒してしまったのだ。
冷徹な事実として、Cランクの人間が雇用され生活できているのは、AランクやBランクが稼ぎ出す利益(余剰)のおかげである。
彼はいわば、彼らに「食わせてもらっている」立場にある。
「断り方」という致命的な欠陥
誤解しないでほしいが、これは「権利を主張するな」という精神論ではない。「処世術」の話だ。
もし気が進まないのなら、「親の介護がありまして」「どうしても外せない用事がありまして」と、角が立たないもっともらしい嘘をつけばいいだけの話だ。そうすれば、相手も不快にならず「それなら仕方ないな」と引き下がる。
それなのに、わざわざ「休日出勤ですか?」と権利を盾に喧嘩腰で返す。自分を引き上げようとしてくれている手に対して、唾を吐きかけるような真似をする。
守られるべき立場のCランクが、自らの立場を危うくするだけの愚策を選んでどうするのか。
せめて「こいつは守ってあげたい」と思わせるような可愛げを見せるべきであろう。
本来、権利を主張できる立場にあるのは逆だ。自分の腕一本で稼ぎ、組織に利益をもたらすAランクやBランクであれば、「そんな教育は不要だ」「休みは休ませろ」と主張しても許される。店も彼らの実力を認め、必要としているからだ。
しかし皮肉なことに、実力者は黙って学び、実力不足の者が「権利」を振りかざして学ぶ機会を拒絶する。
「努力の才能」と「強制」の喪失
ここまで読んだCランク社員は、冷めた目でこう思うかもしれない。
「『努力できる』こと自体が才能であり、遺伝子じゃないか。結局は強者のポジショントークだろ」と。
その指摘は、あながち間違っていない。確かに、「努力を継続できる能力」には個体差や先天的な要素が絡む。
では、「努力できる才能」を持たざる者が、結果を出すためにはどうすればいいのか?
残念ながら、方法は一つ。「強制」しかない。自発的にエンジンがかからないなら、外から無理やり回すしかないのだ。
かつては、パワハラまがいの厳しい指導でこれを強制していた時代もあった。強制的にやらされ、結果として能力が引き上げられるか、潰れて排除されるか。極めて残酷な世界だ。
しかし現代では、そういった「愛の鞭」という名の強制行為は許されない。
これはCランク社員にとって不幸中の幸いだろうし、私自身も、強制のない世の中の方が良いと思う。なぜなら、誰しも病気や環境の変化で、いつAランクからCランクへ転落するとも限らないからだ。弱者が守られるセーフティネットは必要だ。
だが、勘違いしてはいけない。「強制されない」ということは、「誰も無理やり引き上げてはくれない」ということと同義だ。
「努力の才能」がなく、「強制」もされない。そんな現代において、Cランクが生存するために残された数少ない武器。
それこそが、先ほど述べた「他者へのリスペクト」であり、それを体現する「立ち居振る舞い」なのだ。
まだ何も生み出せていないCランクが、自らを救い上げてくれる手を「権利」という名の無愛想なナイフで切りつけたらどうなるか。
店側は彼を責めたりはしないだろう。怒りもしない。ただ静かに呆れ、「ああ、そうですか。では結構です」と微笑むだけだ。
そして、その情熱と時間は、隣にいる「やる気のある子」へと即座に注がれる。
こうして彼は、成長の機会を失い、さらにポジションを悪化させ、最終的には居場所そのものを失っていく。
これは教育の失敗ではない。適者生存の選別が、静かに完了しただけなのだ。
この集団の中で「育ててもらう」ことを待つか、自ら「育ち、勝ち取る」側になるか。
どちらのユニットとして生き残るかは、結局のところ、あなた自身の選択にかかっている。





